ひともをし

今の日本の財政支出に対して、反対派(財政規律派)と賛成派(リフレ派)がいる。反対派は、財務省日本経済新聞をはじめとするマスコミ、経済学者、エコノミストなど、ほとんどの人達だ(世界的にもそうだ)。彼らは、財政支出を縮減してきたから、日本のデフレが継続し赤字が拡大してきたことに気付いていない。なぜ気付かないのだろう。

経済学派にも2通りあって、アダムスミス(古典派)からハイエクフリードマンに続く新古典派は、自由放任(レッセフェール)に重きをおいており、財政規律派(小さな政府)と言える。一方、ケインズは不況の際は、財政支出を行い有効需要を増やすというリフレ派と言える。全く答えの違う経済学って一体なんなのだろう、、、と考えて見た。

この2つの違いは、もしかすると目的の違いなのではないか?能力主義格差社会を望ましいと目指すのが新古典派、能力によらず公平な世界を目指すのがケインジアンなのではないか?目的が違うのなら、答えも違う。なるほど、新聞記者やエコノミストなど能力の高い人は新古典派を支持する訳だ。米国はエリート社会であり、小さな政府が望ましいとされており結果、格差社会だ。

財政支出を批判している日本経済新聞の記事を読むと、またか、と気分が落ち込む。ただ、少数派だが、ケインジアンはいる。財政支出の必要性を声高に叫んでいる人を見ると、格差社会にならないよう頑張らないと、と思うのだ。少しおこがましく、解釈は違うのかもしれないが、百人一首の次の句で頑張ろう。

人もをし(愛し) 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は (後鳥羽院(99番))

財政支出に賛成の人もいれば反対の人もいる(恨めしい)、つまらない。この世を良くしたいと思うゆえに物思いする自分は。

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ちなみに次の広瀬隆氏も新古典派です(運用出身の人は新古典派が多いようです)。 能力の高い人達って、、、